佐原散策

見舞いの後、佐原へバスで出た。まず駅近くの諏訪神社へ。祭神はオオクニヌシの子のタケミナカタである。国つ神であるのに殿舎は神明造。だから装飾彫刻は物足りなかった。拝殿に竜と獅子があるのみだった。獅子はまずまずだが、竜の彫り物は力不足、私にとっては期待外れだった。

その後、歩いて小野川沿いの有名な古い建物が立ち並ぶ一角に出る。秋の大祭を控えてか、雨模様の天気のせいか、昼近くなのに思ったより観光客が少ない。古い建物にはそれほど興味はないので、ぶらっと川沿いを歩いて川東の八坂神社へ。祭神はスサノオ。ここも神明造であり、本殿に装飾はない。拝殿にも彫り物はなく、彫刻を見るのが好きな私にとっては期待外れである。

もっとも目当ては隣の山車会館である。実際に大祭で引き廻される山車の実物を見ることができる。見事の一語に尽きる。雄大な構想、精緻な彫刻・・・。江戸時代の彫り物職人の腕の冴えに圧倒されるばかり。会館では2台のみだが、10月の大祭には14台が勢ぞろいするのだから今から楽しみだ。

江戸の彫工の技術もさることながら、町内毎にこのような見事な山車を作らせた佐原という都市の力にも感銘を受ける。社寺彫刻の場合、教義上の制約からどうしても彫刻の内容には制約を受けざるを得ないが、町民の好奇心から彫刻の世界は限りなく広がる。その好奇心にマネーの威力が加わるのだら面白いものができるのは当然だ。今では往時の勢いは感じられないが、富の遺産は確実に残る、何気ない通り沿いの民家の建築を見ても、良い材料と良い工法で作られた家がそこここに見受けられる。底力あるのである。

次に向かったのが香取神宮である。日本の国造りに大きく貢献したのがここ香取神宮の祭神、フツヌシである。何度も失敗した天つ神族のオオクニヌシ征伐を成し遂げ、アマテラスの天下を作ったのがこのフツヌシと鹿島神宮の祭神のタケミカヅチなのである。もちろん神明造だから彫刻などの装飾を期待してはならない。しかしここでは神社建築の質の高さが伝わってくる気持ちの良い社だ。神門の丹色の美しさ、黒っぽい色調の木壁や柱に緑に塗られた格子が何とも品が良い。観光地化しているが、神パワーは消費され尽くしてはいない。日本人に生まれてよかった、そんなことを感じさせてくれる神社である。

境部摩理勢の誤算

●摩理勢の言い分

兄は大きな男だった。堂々としていて誰も兄に逆らうことはできなかった。俺は先をいく兄をいつも追いかけるだけだった。でも俺だってやることはやってきた。あれからもう30年経つ。兄と大王の命を受けて、万余の兵を率いて海を渡って新羅を征伐した。新羅の王を土下座させたではないか。ところが、今は甥っ子の蝦夷の風下の立場に追いやられている。

あいつがどんな立派な仕事をした! 兄の長男というだけで、生まれたときからやれ惣領、御曹司とチヤホヤされ、長じると紫冠を被り、威張りくさり一族の長老たる俺をも見下げるような態度をとる。

だから我慢できなかった。甥の倉麻呂のようにうまく立ち回る手もあったろうが、年長のプライドが許さなかったのだ。

今、館は蝦夷の放った兵に囲まれている。逃げ場はない。逃げようとも思わない。あの小僧っ子に男の死に方を見せてやるだけだ。

蘇我氏の台頭

蘇我氏が歴史に登場するのは第8代の宣化天皇元年(536)である。いきなり大臣(おおおみ)として登場する。現代的にいうと総理大臣となるか。以降、死ぬまで34年間その地位に留まる。

いったいどんな貢献があったのだろう? 古代には法律などなかった。官職に留まる条件は実力のみである。私は、大王権に経済基盤を与えた功績への代償ではなかっかと思う。28代安閑・29代宣化の父は継体であるが、この大王は畿外から招かれた経緯をもつ。だから自分の自由になる直轄領をもっていなかった。生活費に困るだけではない。王宮を構えて大王が暮らすには、人手が要る。衣食住の世話、警護、祭祀・・。古墳時代は、大王は各地の豪族がもつ領地領民の支配権を認める代わりに、各豪族は大王の生活を保証するという大王・豪族間の相互依存が体制の根幹に存在した。畿内出身の大王であればそういった相互依存関係がすでに築かれているので問題はないが、越前・近江・美濃を地盤とする継体大王には蓄積がない。そこに蘇我稲目は貢献したのではないか? では具体的に何をしたのか? 考えられるのは、大王の倉屯(みやけ:大王の直轄領)を提供したのではないか。荒れ地を開墾し耕地とした。人手は渡来人を使った。朝鮮南部の加羅あたりから農民を渡来させ当たらせた。稲目以前の蘇我氏の先祖は葛城氏の配下にあったから渡来人の活用は、滅亡した葛城氏から受け継いだものだったのだろう。

蘇我一族

稲目は男子では馬子と摩理勢(成人して分家を起こし境部摩理勢となる)。馬子が大王の外戚の地位を利用して政治面で権勢を振るったのに対し、弟の摩理勢は軍事面において活躍する。推古八年(600)、この頃、45歳くらいか、大王の命を承け、大軍を率いて新羅を攻めた。馬子を継いだ惣領息子の蝦夷が生まれる15年も前のことである。推古二十年(612)には、皇太夫人の堅塩媛(きたしひめ:稲目の娘で欽明大王の妃、推古大王の母)を改葬したとき、馬子に指名され「氏姓の本」について誄(しのびごと:死者を誉め讃える詞)を述べさせた。

蘇我氏結束の崩壊

蘇我氏族は、7世紀初めの馬子の時代に多くの分家をつくる。それだけ領地が拡大したのだ。現在の奈良の飛鳥村の一帯に各分家が領地を持った。朝廷においては、蘇我大臣家の力を背景に各々の氏族の代表者が大夫(まえつきみ:今の閣僚)に任じられ政権を運営した。そこではもちろん蘇我一族の結束が不可欠であった。結束が乱れると閣内不一致で政治の乱れの因となるからだ。

ところが蝦夷が大臣に就くとすぐ一族の一体性は綻びを見せるのである。人事を巡っての対立であった。推古の後嗣に蝦夷は非蘇我の田村皇子を擁立しようてする。田村は馬子の娘を娶って古人大兄皇子をもうけている。蝦夷は田村をツナギにして甥を次々代の大王に就けようとしたのだった。

一方、蝦夷の弟の倉麻呂は意見を述べず中立の立場をとった。一族の対立の兆しを見て、あわよくば漁夫の利を得ようとしたのだ。一方、真正直なのが摩利勢である。山背大兄(聖徳太子の子。聖徳太子は用明大王と稲目の娘の間の子)を強硬に推す。蘇我の血筋を第一に考えたのかもしれないが、年下の惣領、蝦夷に対する反発もあったのだろう。この時、摩理勢は70になっていたはず、やや大人げないという感じだ。

●摩理勢の滅亡

頼りないとはいえ、宗主を自他ともに任ずる蝦夷としては、いかに一族の長老とはいえ、ここまで徹底的に歯向かわれてはメンツにかかわる。もう滅ぼすしかない、と決心しただろう。この時代、法律や裁判といった便法はない。敵は一族すべからく抹殺するしかないというのが常識だ。殺さなければ自分が殺されるのである。蝦夷は叔父の摩理勢を滅ぼす機会を探っていたに違いない。

機会はやってきた。628年、馬子が死去して2年後のこと。たまたま馬子の墳墓を造営するため、一族は墓所石舞台古墳)集まっていた。ちなみに当時はこういう慣習があったのだ。何があったかは不明だが、持ち前の短気を起こして摩理勢は滞在していた自分の廬を打ち壊して、無断で本貫地へ帰ってしまうのである。想像であるが蝦夷の挑発にうかうか乗ってしまっのではないか。さて当時においてこのような行為は大罪である。氏族および先祖を冒涜したことになるからだ。蝦夷とすれば兵を起こし邪魔な摩理勢を滅ぼしてしまう大義名分を手にしたことになる。この後、摩理勢は斑鳩の山背大兄の屋敷を頼る。しかしこれはまずかった。そんなことをすれば山背も結託一味と取られても不思議ではないからだ(事実、この15年後には、山背は蝦夷の子の入鹿に殺されてしまう)。結局、摩理勢は自分の屋敷に戻らざるを得ず、蝦夷の軍勢に包囲され殺されてしまう。絞殺されたとある。(了)

藤原不比等の政界デビュー物語

関連年表

659年 誕生。田辺史大隅に養育される。

669年 父の鎌足が死去

672年 壬申の乱。大海皇子(天武天皇)が天智朝を滅ぼす。

673年 朝廷に出仕。従兄の中臣大嶋とともに草壁皇 子に仕える。

679年 吉野の会盟。皇太子に草壁皇子を公定。

681年 草部皇子が皇太子に。

683年 天智天皇の遺子の大友皇子「はじめて朝政を執る」。

686年 天武天皇死去。大津皇子が謀反罪で殺される。

689年 草壁皇子が死去。

 

不比等父親鎌足が近江朝方であり、天武から見ると敵方だった。にも関わらずmw覚ましい出世を遂げる。何より興味深いのが壬申の乱の直後に政界へデビューを果たしていることだ。

 

鎌足は天智と大化の改心新を行った。天武とすれば兄の天智への憎愛は別としても王権を強化するといった大儀は共有そていたはずだ。また天武からすれば鎌足、ましてや子の不比等は直接の抗争相手ではない。必要ならいつでもたたける、そう思ったのではないか? だから見逃したのではないか。天武の人間としての器の大きさを感じる。

 

不比等は幼少より大和に近い河内に住む田辺史大隅に育てられた。遡る古墳時代には田部という天皇家が保有する職部があった。今で言えば国家公務員と言えようか。ヤマト王朝が直接支配する人民で屯倉で耕作した者だ。史は古代の姓で、おそらくは「田辺」は元は「田部」だ。田部の司で、田部史とは屯倉で農民や水稲耕作の管理を行っていたのだろう。この仕事には文字の読み書きに明るい渡来系の人々が多用されたから、田辺史大隅も渡来系の人で文章や法律などに通じていたのだろう。鎌足はこういうことを知ったうえで不比等を預けたのだろう。鎌足の眼の確かさを感じさせる。

 

不比等の母は車持君与志古(くるまもちのきみよしこ)という。君は姓である。車持部という職業部の一つで、天皇が乗る乗り物の輿を管理する部民の長であったのだろう。

 

そして重要なことは、この田辺史と車持とは、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと、崇神天皇のの子)を始祖とする同族であるということだ。昔は、血統を大事にしたから互いに見知っていたことだろう。おそろく鎌足・与志古夫婦が養育先を同族の田辺大隅に頼むことは自然である。

 

では直ぐ世に出ることができたのは何故だろうか? この背景には従兄の中臣大嶋の貢献があったとみる。大嶋は神祇官を務めていた。当然、草壁とも交流があったはずだ。草壁とは歳も不比等が三つ上だけで同世代ということもあり、大嶋の推しで草壁の勉強相手として選ばれたのだろう。

 

その後、草壁は皇太子に定立するが、大津(草壁の異母兄)の政界の存在感が高まっていく。本人の実力もあったのだろうが、それにもまして、壬申の乱っで敗北した近江朝の力がまだ失われずに残っていたのだろう。

 

そうこうするうちに天武が亡くなる。また次期天皇と期待していた草壁も死んでいまう。皇后の持統は窮地に陥る。放置すれば王権が乱れる。壬申の乱の再来である。悩む持統に手を差し伸べたのが不比等であった。一躍、次期天皇候補となった大津を謀反の罪に陥れて殺してしまうのである。その時、草壁の子・持統の孫はまだ七歳、文武天皇として即位するまでのツナギとして自ら即位する。持統天皇である。当然ながらシナリオを書いたのは不比等だ。

 

不比等がどのような陰謀を図って大友を追い詰めたのかは解らない。ただ大津が殺される3年前に「はじめて大友が朝政を執る」と日本書紀に記されている。このときに既に罠が仕掛けられていたのだろう。

 

 

 

大宮氷川神社

梅雨の晴れ間に訪ねる。氷川を名乗る社の総本社で、年間200万人が訪れる大社。それだけに神社特有の静けさはない。神を感ずるところではなく、人やモノを見物する場所と言ったら失礼か。

社地は見沼の畔にあったという。昔は一帯が水辺であったのだ。古伝によると景行天皇の代に出雲から人々がこの地に移住してきたという。境内には、アラハバキという神が祀られる。元々の地主神だそうだ。紀元前500年頃か? ときは弥生時代水稲技術を携えて、やってきた出雲の人々が、地元の縄文的生活をしていた人々と混住したのだろう。だから祭神はスサノオ、イナダヒメ、オオナムチ。特定の人格神というよりはコメ作り技術そのものをカミとみて神格化したのかもしれない。

ところで、この神社には狛犬がいない。また拝殿を遮るように舞殿つまり神楽殿がある。どんな意味があるのだろうか?