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境部摩理勢の誤算

●摩理勢の言い分

兄は大きな男だった。堂々としていて誰も兄に逆らうことはできなかった。俺は先をいく兄をいつも追いかけるだけだった。でも俺だってやることはやってきた。あれからもう30年経つ。兄と大王の命を受けて、万余の兵を率いて海を渡って新羅を征伐した。新羅の王を土下座させたではないか。ところが、今は甥っ子の蝦夷の風下の立場に追いやられている。

あいつがどんな立派な仕事をした! 兄の長男というだけで、生まれたときからやれ惣領、御曹司とチヤホヤされ、長じると紫冠を被り、威張りくさり一族の長老たる俺をも見下げるような態度をとる。

だから我慢できなかった。甥の倉麻呂のようにうまく立ち回る手もあったろうが、年長のプライドが許さなかったのだ。

今、館は蝦夷の放った兵に囲まれている。逃げ場はない。逃げようとも思わない。あの小僧っ子に男の死に方を見せてやるだけだ。

蘇我氏の台頭

蘇我氏が歴史に登場するのは第8代の宣化天皇元年(536)である。いきなり大臣(おおおみ)として登場する。現代的にいうと総理大臣となるか。以降、死ぬまで34年間その地位に留まる。

いったいどんな貢献があったのだろう? 古代には法律などなかった。官職に留まる条件は実力のみである。私は、大王権に経済基盤を与えた功績への代償ではなかっかと思う。28代安閑・29代宣化の父は継体であるが、この大王は畿外から招かれた経緯をもつ。だから自分の自由になる直轄領をもっていなかった。生活費に困るだけではない。王宮を構えて大王が暮らすには、人手が要る。衣食住の世話、警護、祭祀・・。古墳時代は、大王は各地の豪族がもつ領地領民の支配権を認める代わりに、各豪族は大王の生活を保証するという大王・豪族間の相互依存が体制の根幹に存在した。畿内出身の大王であればそういった相互依存関係がすでに築かれているので問題はないが、越前・近江・美濃を地盤とする継体大王には蓄積がない。そこに蘇我稲目は貢献したのではないか? では具体的に何をしたのか? 考えられるのは、大王の倉屯(みやけ:大王の直轄領)を提供したのではないか。荒れ地を開墾し耕地とした。人手は渡来人を使った。朝鮮南部の加羅あたりから農民を渡来させ当たらせた。稲目以前の蘇我氏の先祖は葛城氏の配下にあったから渡来人の活用は、滅亡した葛城氏から受け継いだものだったのだろう。

蘇我一族

稲目は男子では馬子と摩理勢(成人して分家を起こし境部摩理勢となる)。馬子が大王の外戚の地位を利用して政治面で権勢を振るったのに対し、弟の摩理勢は軍事面において活躍する。推古八年(600)、この頃、45歳くらいか、大王の命を承け、大軍を率いて新羅を攻めた。馬子を継いだ惣領息子の蝦夷が生まれる15年も前のことである。推古二十年(612)には、皇太夫人の堅塩媛(きたしひめ:稲目の娘で欽明大王の妃、推古大王の母)を改葬したとき、馬子に指名され「氏姓の本」について誄(しのびごと:死者を誉め讃える詞)を述べさせた。

蘇我氏結束の崩壊

蘇我氏族は、7世紀初めの馬子の時代に多くの分家をつくる。それだけ領地が拡大したのだ。現在の奈良の飛鳥村の一帯に各分家が領地を持った。朝廷においては、蘇我大臣家の力を背景に各々の氏族の代表者が大夫(まえつきみ:今の閣僚)に任じられ政権を運営した。そこではもちろん蘇我一族の結束が不可欠であった。結束が乱れると閣内不一致で政治の乱れの因となるからだ。

ところが蝦夷が大臣に就くとすぐ一族の一体性は綻びを見せるのである。人事を巡っての対立であった。推古の後嗣に蝦夷は非蘇我の田村皇子を擁立しようてする。田村は馬子の娘を娶って古人大兄皇子をもうけている。蝦夷は田村をツナギにして甥を次々代の大王に就けようとしたのだった。

一方、蝦夷の弟の倉麻呂は意見を述べず中立の立場をとった。一族の対立の兆しを見て、あわよくば漁夫の利を得ようとしたのだ。一方、真正直なのが摩利勢である。山背大兄(聖徳太子の子。聖徳太子は用明大王と稲目の娘の間の子)を強硬に推す。蘇我の血筋を第一に考えたのかもしれないが、年下の惣領、蝦夷に対する反発もあったのだろう。この時、摩理勢は70になっていたはず、やや大人げないという感じだ。

●摩理勢の滅亡

頼りないとはいえ、宗主を自他ともに任ずる蝦夷としては、いかに一族の長老とはいえ、ここまで徹底的に歯向かわれてはメンツにかかわる。もう滅ぼすしかない、と決心しただろう。この時代、法律や裁判といった便法はない。敵は一族すべからく抹殺するしかないというのが常識だ。殺さなければ自分が殺されるのである。蝦夷は叔父の摩理勢を滅ぼす機会を探っていたに違いない。

機会はやってきた。628年、馬子が死去して2年後のこと。たまたま馬子の墳墓を造営するため、一族は墓所石舞台古墳)集まっていた。ちなみに当時はこういう慣習があったのだ。何があったかは不明だが、持ち前の短気を起こして摩理勢は滞在していた自分の廬を打ち壊して、無断で本貫地へ帰ってしまうのである。想像であるが蝦夷の挑発にうかうか乗ってしまっのではないか。さて当時においてこのような行為は大罪である。氏族および先祖を冒涜したことになるからだ。蝦夷とすれば兵を起こし邪魔な摩理勢を滅ぼしてしまう大義名分を手にしたことになる。この後、摩理勢は斑鳩の山背大兄の屋敷を頼る。しかしこれはまずかった。そんなことをすれば山背も結託一味と取られても不思議ではないからだ(事実、この15年後には、山背は蝦夷の子の入鹿に殺されてしまう)。結局、摩理勢は自分の屋敷に戻らざるを得ず、蝦夷の軍勢に包囲され殺されてしまう。絞殺されたとある。(了)